オイラ的充実読書ログ。

人生を充実させるために、本を読みます。

筒井康隆の小説感想その17 『果てしなき多元宇宙』(時をかける少女)

『果てしなき多元宇宙』(1965年)

 

少女の想像が、他の宇宙の影響でかなえられて「しまう」話。

 

少女暢子は、級友の史郎の情けなさや自分の理想の顔のことで、なんとはなしに願望があった。

一方、別の宇宙の発明家ノブ(違う宇宙の暢子)は工場での大爆発により多元宇宙におけるノブの同時存在を入れ替えてしまった。

そのとき暢子は、他の宇宙に飛ばされてしまったのである。

その宇宙は、気にしていた自分の目が二重になっていたり、電話のダイアルが5までだったり、史郎が好戦的で暴力的で嗜虐的な世界だった。

元の世界に戻って、と願う暢子。そうしているとまた目の前がぼやけ、また移動が始まった。

元に戻った!そう思った矢先、気づいたら、高級なドレスやバッグを持っている。

いつもからかってきた不良たちや、糸川史郎までもが追いかけてきて、サインを求めてくる。

今度の宇宙では自分がタレントになってしまっていたのだ。

 

 

 

中学生がSFのとっかかりにするのにはいい作品。

途中で、『飛躍が大きくて、まごつく読者がいるかもしれないが、しばらくがまんして、読んでいただきたい。やがて話が、飲み込めるはずだ。』なんて文が織り込まれていて、優しいな、優しい筒井康隆だな、なんてニヤニヤして読んでしまった。

まぐろのサビ抜きのお寿司が好きな人にお勧めしたい。

 

面白いと思った場面。

攻撃的になった史郎が、3人の不良たちをギタギタにするシーンで、ハチャメチャに暴れるのだが、もうやりすぎにやりすぎたところで。

 

 

「これでもか!これでもか!」

 

 筒井康隆『果てしなき多元宇宙』(217P)

 

なにが「これでもか」なのかわからないくらいボッコボコにしている。おそらく史郎は暴力を愉しんでいるんだろう。

この嗜虐性に満ちた暴力の過剰な表現を少年少女たちが笑いどころと捉えるかは、正直わからない。

 ただ、筒井節をオイラはここに感じたのである。

 

 

筒井康隆の小説感想その16 『悪夢の真相』

『悪夢の真相』(1965年)

 

恐怖にとりつかれた少女が心理的な面から、その原因を探す。

 

いつのころからか、少女は般若のお面が怖くなった。

その原因を探っているうちに、少女は友達の文一と昔住んでいた村に行くことにする。

 

 

 

少女の弟が持つ恐怖の原因を探るシーンや少女の恐怖の原因に関しても、心理学からその答えを紐解いていて、この作品のターゲットの少年少女の興味を掻き立てるだろうなあ。

「どうして怖いことが頭に浮かんでくるのか?」という謎を考え、それを答えて。

やさしい小説。

まだまだわからないことが多い幼い人間を成長させる、そんなことをイメージした小説だった。

 

 

筒井康隆の小説感想その15 『時をかける少女』

時をかける少女』(1965年)

 

少女に降りかかるジェットコースターのような、青春の話。

 

理科室で嗅いだ臭いのせいで、時間を遡ってしまった和子。

過去に戻ったというこの話を誰か信じてくれるのか。不安や戸惑いの中、なんとかしようとおそるおそる友達や先生に相談を試み、その結果、原因となった理科室へ行くことになる。

そしてその時間を逆行した後の理科室で待っていたものとは——。

 

SFの古典とも思える作品で、今見ると時代を感じるのは他のさまざまな作品でこの作品の影を見ることが多かったからだろうか。単純に言葉使いが古いのもあるか。

 

 

だが一方では、あまりに科学が発達したため、一般の人たちは、これらの科学知識に、ついていくことができなくなってしまっていた。

 

筒井康隆時をかける少女』より

 

印象に残った一文。未来人の語りの部分だ。

さらにこの先には、2600年には教育期間が長くなりそして新技術の睡眠学習によりそれが短くなるということが書かれているのだが、これからのことを考えるとこうなる気がしてならない。

もし子どもがいるなら、その先の孫、ひ孫はどのような幸せを得ているのだろうか。

——いらぬ心配で、個人としてはその時代その時代で順応していくのかもしれない。

さて、未来の、これからの『幸せ』ってどんな形になっていくのだろうねえ。

 

 

そしてこれは白筒井の作品で、少年少女小説としてきれいに話がまとまっている。ギャグも入ってないので、登場人物にたいして、もうおっさんのオイラは「ふうん、ま、いいんじゃない?」という気持ちが沸き上がった。

でもオイラは、笑いたいのである。あるいは感動したいのである。

この話は、青春が暗澹たるものだったおっさんの心にはミートしない。

 

 

小学生のときにこの白筒井作品から読んでいたら、もっと素直なオイラが形成されたかもしれない。

オイラは『甘酸っぱさのバランスがとれた酢豚』よりも、『激辛四川風マーボー豆腐』とか、酸味がものすごい効いてる『超すだち蕎麦』とかの刺激物の方が好きなのである。

 

筒井康隆の小説感想その14 『48億の妄想』

『48億の妄想』 (1965年)

 

みな自己顕示欲の塊となっている世の中で、それを虚構の世界だと感づいたTVディレクター折口の心の葛藤を描く。

 

「もし、人類がみなTVに映りたがったら」という仮定で、それを強調するように描かれている。

この物語では、「テレビアイ」というカメラが至るところに設置され、常に人がそのカメラを意識して生活する世界となっていて、皆あわよくばTVに映りたい。

TVディレクターの折口は、いかに面白い映像を作れるか、日々躍起になっていた。

しかしそんな中、死亡した外務大臣の葬式にその娘と出会い、現在の世界のおかしさに気づく。

 

なんといってもこの作品は、1965年に書かれているのに、今の世の中にですら痛烈な風刺として成り立つところがすごい。

「人間の根源的欲求」を見据えて描かれているのではないか。

 

この話の中で面白いと思ったのは、折口が自分で気づいて突如誘拐された特別思い入れもないを追いかけ冒険するところだ。

非現実的な事件が発生したことで、折口は虚しい気持ちに陥っていたところからこれこそ自分がやらなくてはならないことだ、と熱い思いが湧き上がる。

しかし、その事件自体TVに仕組まれたものであった。

 

我々も、珍しいことが起きたときに、それが虚構出ないといえるのか、あるいは、虚構に真剣に取り組んでいる可能性はないのか。

そんな心臓を小突く横やりみたいなことを考えた。

 

 

彼らには自信があるのだ——折口はそう思った。自分の才能に自信があるのではない。いったん有名になりさえすれば、常に自分を宣伝して、いつまでも忘れられることのないように、始終ニュースやゴシップを作り続けて見せるという自信だ。自分の個性的な、すぐれた伝記をでっちあげて見せ、それを読者に信じこませてやる、という自信だ。毎日のテレビのニュースの種になるほどの、さまざまなスキャンダルにまきこまれて見せるという自信だ。しかもそのためにマスコミかれ消されないよう、片方ではちょっとした善行もして見せてやるという自信だ。無意味な流行語を、次から次へと作ってやるぞという自信だ。他の有名人をほめてやることによって自分もほめてもらい、また彼ら同士の相互関係がニュースになることによっても、ますます自分のイメージを確立させてやるという自信だ。有能な自分の宣伝係を多数手もとに引きつけておいて、あやつって見せることへの自信だ。おそらく大衆のひとり、ひとりが、そんな自信を持っているに違いない——折口はそう思った。

 

筒井康隆『48億の妄想』より 

 

小説の中の『テレビに出て有名になりたい人間』がどうしてそうなりたがるのかを書いた真に迫る一部分だ。

この文は今の時代にも通ずる、SNSやらyoutuberの心構えを書いているようにも見える。

逆に考えると、この考えを持っていないとなかなか有名youtuberにはなれないのかもしれないけど。

 

あとは面白い部分として、作中の若く軽薄なタレントが馬鹿にされたときにこう言っていた。

 

 

「侮辱凌辱おれ恥辱!」

 

筒井康隆『48億の妄想』より 

 

50年以上前の時代でも、ごく簡単なラッパーが使うような言葉を使っていた証拠が、ここにあった。

 

 

筒井康隆の小説感想その13 『堕地獄仏法』(東海道戦争)

『堕地獄仏法』(1965年)

 

宗教政党が与党になって、なかば暴走的に国を支配していっている世界の話。

 

最初の方はとりとめもなく話が進んでいくが、その間に言論弾圧、宗教の信者として活動すれば、いいことがあったと喧伝する女が出てきたり、宗教政党への皮肉多数ちりばめられている。

そして、中盤には宗教政党の是非の論争、実際の撃ち合ったりする小さな闘争があり、そして最後には中世の魔女裁判のように拷問にかけられて話は終わる。

 

『もし、こうだったら』というのがSF小説というものだけど、「やはりその想像力豊かだよなあ」というのがシンプルな感想。

「 これが、こうなったらこうでね・・・」が詰め込まれている印象。

 宇宙だの、地底だのムー的要素だけじゃなく、この人の論理展開はいつも楽しく見てます。頭が疲れるけど。

 

 

「いってほしい」 

 

筒井康隆『堕地獄仏法』より

 

言論統制が敷かれている中、法主の鼻の特徴を言いたくて言いたくてたまらなくなった黒川が、自分だけそのタブーに触れてしまっていて、主人公を共犯にしようとしているところ。

その懇願のセリフがこれで、シンプルかつ滑稽なのだ。

その後、主人公が黙っていると、彼はうなだれてしおしおとドアを開いて帰ろうとするのだけど、それからドアに身体を半分かくしたままの恰好で主人公を見ながら、

 

 

「ひとことだけでいいのだが」 

 

筒井康隆『堕地獄仏法』より

 

と、未練たっぷりで言い放つところにも自分の中の不安と、もし言ってくれたら一転、自分のことを棚に上げてそれを言いふらせる、という攻撃性が混じっていて、唇の端をあげながらフフ、と声を出して笑った。 

 

この話が、この『東海道戦争』の最後に掲載されていたが、最後らしい作品だった。

この本に載っている作品がバラエティに富んでいて、バランスも良く感じた。

最初の本はやはり『イイモノ』に仕上がるものなのだなあ。

筒井康隆の小説感想その12 『廃墟』(東海道戦争)

『廃墟』(1961年)

 

滅亡迫る世界で、生き残った4人が枯渇の中から生き方を探す。

 

核でも落ちたかのような破壊された世界。チルたちはその世界で生きていた。

あるとき、疑問に思った。虫は増えるのに、なぜ自分たちは増えないのか。

誰もわからなかった。

チルとマアは愛し合っていた。また、ガルとムウもそうだった。

それだけで生きていた。しかし、何か満たされぬ気持ちがそこにあった。

雨の降るある日、ガルが別の人間を発見する。しかし、食べ物がないと思ったガルは、仲間にするのを断った。

その人間は、自分たち4人とは違って、小さな体で胸に膨らみがあった。

きっと病気だ、とガルは言った。

4人は連れてきてやってもよかったのに、という気持ちになったが、彼らは彼女を追わなかった。

 

 

 

人は必ずしも男女で愛し合うとは限らない。生まれたときから異性という概念がなければ、そのなかで愛し合うものなんだろう。

しかし、そのあと生殖可能な存在が現れたとしたら。

その愛は崩れるのだろうか。

 

自分たちの中に新しい人間を入れることへの葛藤。

絶望と渇望の世界では、人の心は変えられないのかもしれない。 

 

筒井康隆の小説感想その11 『座敷ぼっこ』(東海道戦争)

『座敷ぼっこ』(196年)

 

老教師が座敷ぼっこの存在を通じて、ノスタルジーな気持ちを起こす話。

 

クラスの情景から、帰り道の公園で座敷ぼっこと話すところも、何ということもない。

座敷ぼっこに自身がそうだと発表されたあとも、老教師は終始穏やか。

主人公と存在と添えられている地の文が、そのスローテンポを許す。

 

ホワイト筒井の小説。どっちでも書けるところがこの人の凄いところ。ホント、幅が広い。

数ページの短いページでも、笑える面白い表現を探しているオイラでも、やっぱり好きなんだな、気持ちを引き込まれる。

 

 

「これじゃあ、座敷ぼっこのあべこべじゃないか」 

 

筒井康隆『座敷ぼっこ』より

 

増えていたクラスの人数がまたもとに戻ったときのセリフ。

座敷ぼっこは人の記憶を忘れさせることができるので、老教師はそもそも座敷ぼっこが教室に来ていたことを忘れてしまっていた。

座敷ぼっこがいなくなった可能性までは考えられないよなあ、なんて思いながら、その先に続くであろう平凡で穏やかな毎日を想像してみたりなんかもして、この『東海道戦争』というアルバムの、ロックアルバムでも一曲くらいは入っているスローテンポ曲として、その存在感がしっかり光っていた。

 

ユーモアの好きなオイラだけど、ハンバーグもラグビーボール状に模られたニンジンとか楽しいからね。